2020東京オリンピック開催おめでとう!
日本時間7日の早朝5時にブエノスアイレスで開かれたIOC総会で2020年オリンピック開催都市が東京に決まりました。
プレゼンター方の情熱溢れるスピーチは多くの人々に感動を与えてくれました。
歓声と笑顔で日本列島は喜びの朝を迎えたのでした。
東京五輪開催による国内経済への波及効果は大きく期待出来るでしょう。そして世界の方々に日本の良さをもっともっと伝えられる機会となるででしょう。
安部総理はプレゼンの中で「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません。」と自信を持って宣言されました。
根拠があることを祈るだけであります。
ただ言葉を読み解き、保証は東京限定であると言っているなら・・・。
北関東は、東北は、福島は、どうなっていくのでしょう。
皆と同じ様喜んではいましたが、なにか引っ掛かる思いがありました。
それは召致決定の前の日に放送された短いニュース。
福島第一原発事故により避難を余儀なくされた近隣農家の夫婦にオリンピック召致に関するインタビュー。
夫婦は口数少なく、
・・・「同じ国の事とは思えない。」
そして棄民と表現したあまりにも悲しい心根が・・・
はるか大昔でも、戦前でも、どこか遠い国でもない。
現代の同じ時間を生きる同胞の言葉。
おそらく住み馴染んだ故郷双葉郡に一生帰れる事はないであろう人の重く悲しい言葉。
2013年9月8日
世界の子供に伝える会事務局
「8・15 原爆・反戦詩を詠む市民の集い」
*終戦の日、原爆ドームはいつもと変わらず静かに街を見守っている。
栗原貞子生誕百年・原発事故被災者への連帯を込めて
8月15日・開催報告。
「ヒロシマ文学保全の会」と「広島花幻忌の会」では毎年8月15日に連携して頭書の会を持っています。
今年は8月15日(木)午後4時から広島平和記念資料館東館地下会議室①において開催しました。
ゲスト講師に故原爆詩人の栗原貞子さんと生前親交のあった東京在住の詩人伊藤眞理子に来て戴いて、
栗原貞子の作品の真髄に付いて語って戴き、又新発見の手紙や詩作品の朗読をして戴きました。
後、参加した被曝三世の小学生、中学生に主婦や生き残りの被爆者などの詩作品の朗読に、
沖縄三味線にギターの弾き語りなども交え、12回目になる会の参加者の連帯の意識を高めました。
参会者訳50名。
*ゲスト講師の伊藤眞理子さん
*参加者の皆さん
2013年8月20日
世界の子供に伝える会事務局
また、暑い夏がやって来た。
またヒロシマ、ナガサキに暑い夏がやって来た。そしてフクシマにも・・・。
ひとらは堪えるだけしかないのか・・・・。
あの一瞬の火球に飛ばされ灼かれて68年。
いま地球は狂い始めているのか、
世界は天変地異に荒れ、
日本列島でも、周辺の海域温度が上昇し、
記録的な猛暑と局所的豪雨に襲われている。
可笑しくないか・・・・。
これは誰の所為なのか・・・・?
勿論、神を裏切り悪魔と手を結び、光と物質の根源へ手を出し、無差別(ゼノ)殺戮(サイド)の道具を開発した人間の仕業なのである。
冷戦は終わったはずなのに、人種や宗教の対立に相互殺戮を繰り返し終わらない。
日本でも、野党の分裂と対立で選挙の結果、保守派一党独裁の傾向が出始めている。
戦争放棄はどうなった・・・・??。
また軍隊を持つのか・・・。
百年前に逆行の臭気。
私たちは、一人一人が、己の心を凝視し原点に立ち戻り、大切な緑と水の地球の物語を大切な世界の子供に伝え残してやる努力をしなければならない。
決してくじけてはならないのだ。
2013年8月15日
長津功三良
68年経った広島
8月6日、広島は68回目の原爆の日を迎えました。
8時15分、残念ながら今年は広島行きを見送り自宅で黙祷しました。
長津副会長をはじめ多くの会員の方々は今年も広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式に参加されました。
平和宣言に対して、「今年も脱原発に触れていない」「核拡散防止条約再検討会議準備委員会で、
核兵器の非人道性に関する共同声明に賛同しなかったことを批判していない」と言う批判もありますが、
『「絶対悪」である核兵器の廃絶を訴える』と力強く謳い上げた宣言文を静かに受け止め、
原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げようではありませんか。
2013年8月6日
世界の子供に伝える会事務局
広島ロケ報告
6月10日7時17分のぞみ9号で今年二回目の広島行き。今回は「夏の花」の最終ロケです。
昼食は来訪の度に訪れる「こがね食堂」に寄り軽く済ませ、大女将の元気な姿を見て一安心したのでした。
今回はロケにプラスして共同通信さんから取材依頼が入っており2時に原時彦さん、長津副会長と共に共同通信社の記者さんと合流。
ANAクラウンプラザホテル広島さんのご協力で、まずは長津副会長のインタビューを収録しました。
*共同通信社帯向記者と長津副会長
*共同通信社帯向記者と原時彦氏
広島花幻忌(かげんき)の会の事務局長であった故海老根 勲さんの「原民喜」を中心とする原爆文学を継承する活動に対する功績と思い出話をお聞きしました。
その後広島交流プラザに向かい、視聴覚室で「夏の花」の作品朗読を広島花幻忌の会の片山女史にお願いしました。
プロのナレーターではない片山女史ですが、教壇に立たれる方だけあって味のある朗読を収録できました。
*朗読をお願いした花幻忌の会の片山女史
この日のラストは、 場所を戻し原時彦さんと前回に収録したインタビュー映像をチェックした後、インタビューを収録したのですが、日ごろ無口な方なのに嫌な顔も見せず、もう何度目になるのでしょうか?恐縮する次第です。
*前回のインタビューシーンをチェックする原氏
翌11日は、朝から原時彦さんと弊会の伴さんと京橋川河畔に向かいました。
NPO法人雁木組さんのご協力を得て、「雁木(がんぎ)タクシー」と呼ばれる川の水上ボートで、「夏の花」に記されている縮景園側の西河畔から東河畔に筏で渡った原民喜のイメージシーンを撮影しました。
*雁木船上での原氏と伴氏
*京橋川を北上する
*縮景園の雁木
*大田川放水路にある中島に群れなす鵜
30分程の船旅でしたが美しい都会の川と心地よい風が心軽やかにしてくれロケながら癒しのひと時を満喫しました。
2013年6月20日
世界の子供に伝える会事務局
隠蔽体質が直らない原発安全管理体制は改まるのか?!
高速増殖原型炉もんじゅの大量の安全点検漏れが発覚したばかりなのに、
陽子加速器施設JーPARCで放射性物質漏れの事故により30人に及ぶ職員が被曝し、
施設外にも放射性物質が放出された。またもや日本原子力研究開発機構からの連絡が、国にも茨城県にも東海村にも一日半遅れて届けらると言う失態を晒した。
福島第一原発事故の教訓をいかす事を忘れたずさんな安全管理体制には、只只呆れるばかりである。
安全体制の改善を忘れ原発容認に走る国や原子力機構や電力各社に猛省を促す事が国民の義務である。
安倍総理大臣は、 サウジアラビア王国・トルコ共和国やベトナム社会主義共和国等世界各国に原発営業を繰り広げ「世界一安全な原子力発電の技術を提供できる」と嘯くが、
この現状を無視出来るのか。
三度も被ばくを経験した我が国の宰相が、安全体制も出来ない危険極まりないプラントを死の商人もどきとなり売り歩く恥ずべき行為は止めるべきである。
2013年5月29日
世界の子供に伝える会事務局
原民喜没後62年 しのぶ会
3月17日に広島市中区の広島平和記念公園で原民喜を顕彰する「広島花幻忌の会」の主催で原民喜追悼の集いが開催されました。
広島市出身の作家、原民喜(1905~51年)が被爆体験を描いた小説「夏の花」をテーマとした映像作品を現在私どもは制作しております。
民喜の甥で版権継承者の原時彦さんの全面協力の下、研究者の方々やゆかりの場所を紹介し「民喜と夏の花を歩く」という内容のものです。
当日は。
公園にある詩碑に献花をした後、原爆資料館東館地下会場で「ヒロシマからのメッセージ」と「原民喜と夏の花を歩く」の予告編の上映をしました。
*原爆ドーム前にある原民喜詩碑での献花
*原爆資料館東館地下会場での映写会景
*熱き思いを静かな口調で語る原時彦氏
*原民喜研究家の竹原陽子さん
2013年3月18日
世界の子供に伝える会事務局
25年2月の広島ロケ
またまた、2月11日から広島ロケに行きました。
この4年間に何度も撮影のため訪れた広島の町は第二の故郷と思えるほど地図がなくても歩けるほど詳しくなりました。
広島駅に到着後、八丁堀に向かい福屋新館の場所で同ポジ撮影。
次に歩いて本通に向かい被爆のランドマークであった下村時計店本店の場所で同ポジ撮影。
相生橋にて同ポジ撮影後、広電に乗り原時彦氏のご自宅がある西国街道の中の宿があった草津に向かいました。
*中区八丁堀にある原爆被災の解説板
草津の駅で会員の伴さんと合流し、伴さんの案内で原時彦氏のご自宅に向かいました。
温かみのある原さんの笑顔に迎えられしばしの休憩の後、原民喜さんの貴重な関連資料の数々を撮影させていただきました。
*原民喜さんが兄守男さんと少年時代に発行した同人誌
夕方になり原家での収録を終了し、世界平和大聖堂があるカトリック幟町教会に向かいました。
肥塚神父とお会いし恐れ多い事では在りますが、大聖堂内で神父がお祈りを<されるシーンを撮影させていただきました。br />
*カトリック幟町教会 世界平和記念聖堂
2月12日は朝から「広島市まちづくり市民交流プラザ」の音響スタジオをお借りして、原時彦さんのインタビューと原民喜研究家の竹原洋子さんの解説を収録しました。
*左から竹原さん原さん押切さん
昼食は広島に訪れる度にお邪魔する「黄金食堂」さんにより、名物おばあちゃんの元気な顔を確認して一安心。
*広島黄金食堂の名物「黒おでん」
その後ホテルに戻り原さんのインタビューの残りを収録した後、カトリック幟町教会世界平和記念聖堂の鐘の音を収録しこの日は終了としたいところでしたが、夕食を軽くとった後、長津副会長と合流し宇品に向かいました。
原民喜の作品に出会い遥々ポーランドから来日し、現在は広島大学を含め幾つかの大学で講師をされている原民喜研究家のウルシュラ・スティチェク(Urszura Styczek)さんを訪ねました。大変多忙なスケジュールでお疲れの中、夜にも関わらずインタビューに対応していただきウルシュラさんの優しさに思わず感謝。
*ウルシュラ・スティチェクさん
2月13日は朝から広島市公文書館に向かい資料の調査をした後、広島平和記念資料館にお伺いし諸々の打ち合わせをさせて頂きました。
その後、「ANAクラウンプラザホテル広島」さんのご好意により屋上から広島市街の俯瞰画を撮影させて頂きました。
普段人が上る事がない屋上の上のはしごで登る最上部、柵もないので撮影には最適でしたが、怖さは100倍!
しかしなかなか見ることの出来ない眺めは最高で、厳島もはっきりと間近に見えるほどの感動でした。
*ANAクラウンプラザホテル広島からの俯瞰画
2013年3月8日
世界の子供に伝える会事務局
謹賀新年
激動の年も明けました。
日本も世界も、地球そのものも、破滅の危機を迎え混沌としている状況にあると言えるでしょう。
責任は全て傲慢で自分勝手な人類にあるでしょう。
我々の運動も三年目に入りますが、
当初目的のヒロシマ、ナガサキの遺産と教訓を次の世代へ手渡す運動に、
残念なことにフクシマが加わってしまいました。
全て「光」や「物質」の根源を変造した結果であるでしょう。
このかけがいのない地球を守らなければなりません。
人類は反省と学習をしなけむれば、
他の生きものを巻き添えにして絶滅へ向かうでしょう。
「未来への証言」シリーズの続編を継続刊行するために、
諸氏の良識ある理解と応援を大いに期待しております。
2013年1月元旦
長津功三良
広島からのメッセージ完成!
今、日本だけでなく地球全体規模の深刻な環境破壊により危機的状態にあるといえるでしょう。
過去の日本も犯し、今拡大する発展途上国の公害による大気や土壌の汚染、水質汚濁に加え、
温暖化、オゾン層破壊、酸性雨等の地球全体の規模の環境破壊が進んでいます。
そして、福島原発事故が昨年発生しました。学者や反対運動の方々が永く訴えてきた警鐘が
単なる絵空事でないという事実を、多くの国民の方が実感し理解した事でしょう。
「原発安全神話」は完全に崩壊したのではないでしょうか。
この危機的状況の中で、私達も何かお役に立ちたいとの思いから今回の作品
「被爆と被曝 警鐘と希望 広島からのメッセージ」
という作品の制作にかかった次第です。
作品の主旨は、弊会の発起人でもあられ、医師であり詩人としてもご活躍されている
御庄博実先生の作品からのお言葉をお借りしたいと思います、
*詩人「御庄博実」としても名高い丸屋医師
「原発と原爆」この分離できない双生児の遺産に
、
これから人類は幾十年か幾百年か、
いやほとんど地球の歴史の終わるまで、
その病根への対応を迫られるであろう。
明日への希望、
次代への希望を持ち続けることが、
人間にとっても、
社会にとっても放射線という病原からの
復活への最強の「免疫力」なのだ
その事実をヒロシマの復活は示している。
福島の方々に、そしてすべての日本国民に、
「警鐘と放射線に立ち向かう術を伝えたい」
との思いから、広島で原爆による被爆と戦ってこられた
被ばく者治療医師として経験を積んでこられた先生のお言葉を中心に
、
医療スタッフや様々な分野で実際に被爆者を援助してこられた方々のお話を加え
作品を構成しております。
福島警戒区域周辺と飯館村にもロケを敢行し、
除線作業や飯舘村の区長さんのお話をお聞きしました。
現地で目にした実情は、想像はしていましたが想像を超える危機的状況でした。
大マスコミが中々流さない住民の苦しみと不安と恐怖は筆舌し難いものでした。
飯館村鴫原区長の
「放射能も、原爆も、広島長崎も、何も知らなかったし興味もなっかった。」
普通の日本人が持つ気持ちは素直な真実でしょう。
福島第一原発事故により突然直面した、
故郷を追われ、未来を失い、子供や孫たちの将来に対する不安は計り知れないものでしょう。
広島の経験を一日も早くアドバイスしたい気持ちが又強くなりました。
*広島陸軍病院軍医時代に被爆し今も内部被曝問題と闘い続ける肥田医師
*広島原爆被爆者援護事業団理事長の鎌田医師
*被ばく最前線で闘う前広島共立病院院長の青木医師
*浄土真宗浄寶寺諏訪住職
*8月6日灯篭流しの風景
*被爆ピアノコンサートの主催者要田代表
*8月6日原爆ドーム前での被爆ピアノコンサートの
*世界平和記念聖堂で肥塚神父
*旧制広島県立一中であった国泰寺高校校長の教育家福谷先生
*広島原爆養護ホーム舟入むつみ園での平和学習
*舟入むつみ園の谷川介護主任
*広島共立病院の山地医療ソーシャルワーカー
*原爆被爆体験証言者の笠岡さん
2012年12月8日
世界の子供に伝える会事務局
福島低線量被曝地帯ロケ
(3 田村市・葛尾村・楢葉町・川内村・楢葉町・富岡町)
早朝福島市を出発し、高速で二本松まで向かい
そこから下道でいわき方面を警戒区域に沿って向かいました。
安達太良サービスエリアで休憩兼朝食タイムを摂りました。
二本松インターを降り、国道349号線を通り杉沢の大杉で有名な二本松市杉沢地区を通過し、
田村市船曳町に入りました。
県道50号線を進むとパトロールをする車両をチラホラ見かけるようになりました。
双葉郡葛尾村に入ると自衛団の小屋があるほかは人の気配がない、
1500人の葛尾村民が避難しているのですから無人集落の雰囲気なのは当然ですね。
*田村市都路町にあった道路看板
*葛尾村にあった泥棒注意の看板
*葛尾村の途中で見た通行止めの標識、前はここまでだったのだろう
*葛尾村封鎖道路
*福島県双葉郡葛尾村汚染検査場看板
*福島県双葉郡葛尾村汚染検査場
*葛尾村放射線測定器
葛尾村県道50号線葛尾封鎖検問所で引き返し、
国道399号線を南下し田村市都路町を通過、
福島県双葉郡川内村に入りました。
川内村県道36号川内鎖検問所で当然また行き止まりなので引き返しました。
*川内村封鎖道路
国道399号線は、国道といっても峠峠の連続した山道でした。
紅葉が見事に美しい日本の山里の風景なのが悲しく感じられました。
県道41号線を経て、いわき四倉のインターから常磐自動車道にのり広野でおりますと
東京電力広野火力発電所の煙突が大きく見えてきました。
不思議なもので火力発電所の煙突でさえ不気味に見えてしまいます。
広野の町から国道6号線を北上すると、
津波被害の爪痕が未だに放置されたままの姿を晒していました。
*道の駅が臨時の警察署に変貌
福島県双葉郡楢葉町国道6号上繁岡封鎖検問所はさすがに一級国道なので厳重でした。
*福島県双葉郡楢葉町国道6号上繁岡封鎖検問所
*福島県双葉郡楢葉町封鎖道路
福島県双葉郡楢葉町波倉除染作業跡に残された汚染土や汚染落ち葉が入った黒い袋は不気味でした。
*福島県双葉郡楢葉町波倉除染作業跡
2012年11月25日
世界の子供に伝える会事務局
福島低線量被曝地帯ロケに行きました(2 南相馬市・浪江町)
峠のすぐ手前まで阿武隈高地の飯舘村農地が広がっている飯舘村を後にし、
福島県道12号線を南進死海に向かうぞ~!。
八木沢峠は典型的な“片越え”の峠なのです。
飯舘から行くと阿武隈高地の上と下を繋ぐ長い坂道にしか思えなかったです。
南相馬市に入り県道34号線を右折し、住宅が多くなってきましたが
震災の影響も被曝の影響も感じないぐらい日常の田舎町の平凡な府警でした。
馬事公苑をすぎ少し行くと機動隊の車が監視をしていました。
さぁ、本日二つ目の封鎖道路。
この先が立入禁止の警戒区域
*線南相馬市原町区の県道34号にあった警戒電飾
福島第1原発から20キロ圏内の警戒区域の浪江町にあるエム牧場。
殺処分を警戒区域内の家畜の決定したが、
不服とし牧場で今なお牛を育てる畜産農家で今尚300頭の牛たちを育てている。
報道の中で牧場の代表として吉沢氏は
「「畜産業は子牛を立派に育て、そして最高の値段で販売する。
それをずっと生き甲斐としてやってきた。
エム牧場では牛舎造りだって自力です。
そんな中で(牛たちを)餓死させることはどうしてもできなかった」
と発言していた。
*浪江町大字立野_県道34号の封鎖道路
*浪江町吉沢牧場
天下の一桁国道が通行止めとは、この後何十年にわたり一般車が走ることはないであろう。
*国道6号の立ち入り禁止警戒区域への検問風景
南相馬市小高区浦尻は大きな潟湖でありました。
大正末期から昭和初期にかけて水田として干拓された井田川浦です。
山があり、海があり、水田を取りまく集落という日本のの原風景的懐かしい眺望だったと言います。
南側には、東北電力浪江・小高原子力発電所予定地がありました。
*福島県南相馬市小高区浦尻地区。
長泥地区に住んでいたのは74世帯、277人。
3月15日の午前7~同11時と、午後1~3時の2回2号機から放出された大量の放射性物質が放出されたのでした。
その日は風が海から北西方向に吹き、村では午後5時から約半日、
後々問題が発生した時のポイントとなる雨がふったのでした。
*南相馬市原町区大甕幼稚園の放射線測定器
*南相馬市町運動公園の放射線測定器
「ひもろぎ」とは、上の神々が地上に降り立つ際の目印だとも言われています。
次代永劫の繁栄安泰と住みここちの良いさと作りを願う碑文は虚しさを際立たせてしまいます。
原発の恩恵も受けず、唯々慎ましやかに生きてきた民が、
ある日突然永きに渡りふる里を追われる事になってしまった現実は・・・
*飯舘村のひもろぎの里の碑
題は、夢大らかに。
山 美しく
水 清らかな
みどりの林に 小鳥は歌い
村を興さん 村を興さん
作詞家小林金次郎も草葉の陰で泣いているでしょう。
*飯舘村 民歌碑
*飯舘村 役場
ゴーストタウンも不気味なものですが、飯館村の中心地の気味悪さは別格の凄みを感じました!
建物は綺麗でどこも傷んでいないのに、動物も人も鳥も生き物の気配が何も感じられない。
映画の世界か、不思議な世界に迷い込んだような感覚に陥りました。
*飯舘村飯樋 無人の集落
*飯舘村飯樋 無人の集落
2012年11月10日
世界の子供に伝える会事務局
福島低線量被曝地帯ロケに行きました(1 飯館村)
東京を夜中の三時に出発し、東北道をまっしぐら。
安達太良サービスエリアで休憩兼朝食タイムを摂りました。
二本松インターを降り、国道4号を北上し県道39号線を右折し少し走ると「川俣町」に入りました。
*早朝の阿武隈川河畔
忘れていましたがここも全国から注視された被曝エリアなのです。
「川俣町」は「浪江町」「飯舘村」とともに、
福島県県民健康管理調査と言う被曝線量調査の先行調査地域なのです。
国道114号線から県道12号線に入っても、多分田舎の普通の交通量と思える位の車が走っており被曝エリアの雰囲気は微塵も感じませんでした。
*R114沿いの川俣町の農産物直売所「ここら」。早朝だからやってないのか・・・
*川俣町中道の道路標識。飯館の文字を実際現地で目にすると、来たぞと実感する
全村避難の飯舘村は牧歌的風景が広がるのどかな高原集落でした。
村内には多くの水芭蕉群生地があり、
高級牛肉で知られる飯館牛の産地でもありました。
*福島県相馬郡飯舘村
*除線作業告知の看板
*県道12号の飯舘村境 左は水境妙見初発神社
飯舘村に入るまでの田畑は、来年の収穫のためよく手入れされ人の手入れによる慈しみを感じられましたが、
ここの田畑は休耕地以上な無残を感じられました。
実は向かうまでの田畑を見ていて何も感じてはいなかったのですが、
飯舘村の田畑を見て当たり前の風景にこそ感謝があるのを実感しました。
*荒れ果てた飯舘村飯桶の田畑は無残な姿を晒していた
福島県飯舘村は全村避難地域です。
長泥地区に住んでいたのは74世帯、277人。
長沼地区は村の中でも線量が高い地域でしたので立ち入り禁止(原則5年間)措置を決めたそうです。
3月15日の午前7~同11時と、午後1~3時の2回2号機から放出された大量の放射性物質が放出されたのでした。
その日は風が海から北西方向に吹き、村では午後5時から約半日、
後々問題が発生した時のポイントとなる雨がふったのでした。
*飯舘村長泥地区に通じる封鎖検問所
*飯舘村役場前に設置された放射線測定器
「ひもろぎ」とは、上の神々が地上に降り立つ際の目印だとも言われています。
次代永劫の繁栄安泰と住みここちの良いさと作りを願う碑文は虚しさを際立たせてしまいます。
原発の恩恵も受けず、唯々慎ましやかに生きてきた民が、
ある日突然永きに渡りふる里を追われる事になってしまった現実は・・・
*飯舘村のひもろぎの里の碑
題は、夢大らかに。
山 美しく
水 清らかな
みどりの林に 小鳥は歌い
村を興さん 村を興さん
作詞家小林金次郎も草葉の陰で泣いているでしょう。br />
*飯舘村 民歌碑
*飯舘村 役場
ゴーストタウンも不気味なものですが、飯館村の中心地の気味悪さは別格の凄みを感じました!
建物は綺麗でどこも傷んでいないのに、動物も人も鳥も生き物の気配が何も感じられない。
映画の世界か、不思議な世界に迷い込んだような感覚に陥りました。
*飯舘村飯樋 無人の集落
*飯舘村飯樋 無人の集落
舘村二枚橋除染作業
2012年11月5日
世界の子供に伝える会事務局
10月31日からの再び緊急広島ロケ
未来への証言の制作の第三回広島ロケを、10月31日から3日間の日程で急遽広島に向かいました。
広島原爆養護ホーム舟入むつみ園にお願いしていた「平和学習」の撮影許可が下りたからです。
【10月31日】
*舟入むつみ園の平和学習
平和学習とは、むつみ園の入園者方による被爆体験のお話会なのですが、
講演形式や一体多人数の形式でなく、
児童や学生と被爆体験者が一体一でその体験をお聞きするというものです。
当然お一人お一人の被爆体験は違ったものですが、子供達の人生の中で最高に濃縮された貴重な時間となっていることでしょう。
前回この平和学習のことをお聞きし是非とも収録をしておきたいと思っておりました。
伝えることの大事さの意義と伝え残そうとされている方々の情熱の魂は美しく安心を感じます。
その一助になればと、貧乏女体で予算もない中、カンパを集めヤットコさで広島訪問を実現したのです。
【11月1日】
*左から のぞみ園設模型 鎌田先生 白血病のデーターや園運営の資料を見せて頂きました
この日は芸備線に乗って広島原爆養護ホームの特別養護倉掛のぞみ園に向かいました。
前回お伺いした時にお会いできなかった高名な医師であり、又運営団体である財団法人広島原爆被爆者援護事業団の理事長でもある
鎌田 七男先生のインタビュがOKになりましたので再度お伺いしたのです。
鎌田先生は、血液内科学を専門とされ広島大医学部卒後、同大教授などを経て、1997~99年に同大原爆放射能医学研究所(現原爆放射線医科学研究所)所長。放射線被曝者医療国際協力推進協議会(HICARE)会長なども歴任した方で、2001年から広島原爆被爆者援護事業団理事長をなされている被爆者治療に限らず幅広く被爆者援護をなされている重鎮の医師の先生なのです。
財団法人広島原爆被爆者援護事業団は、取材をした舟入むつみ園・倉掛のぞみ園と特別養護施設の神田山やすらぎ園を運営しているわが国最大の被爆者養護施設であります。
お話の中で一番感銘を受けたのは、「入園者が安心をし、辛い過去を乗り越え笑顔で暮らせるためには、職員の意識がとても大事なのだ」とおしゃり、その為に職員教育に時間をかけ、本当に細かく指導されている姿勢をお聞きし、これまでインタビューしてきた職員の方々と園の雰囲気を
実際見てきた私としては本当に疑問が氷解し、心から納得させられました。
語れない語らない被爆者の方々が、あえて自主的に「平和学習」に向かい合う様になり、そこに使命感を感じう様になった事は、
鎌田理事長の少しづつの歩みによる長期の教育成果のたまもであったと確信しました。
私は「平和学習」こそが「ヒシマの復活」の大きな走と言うか現象と言うか一つだと思い、是非にもという思いで主治医を申し込んだのです。
子供たちの真剣に満ちた目、入園者の優しさに満ちた慈愛の語りの顔・顔・顔を見たとき、どれだけ表現できるかは別にしまして撮影してよかったと本当に思いました。
被爆者養護施設は、可能ならば又撮影を続け一本の作品として別作品としても完成させたいと思っております。
大マスコミや大手の制作会社と違い予算も十分の一以下、ギャラもスタッフも足りないため不本意な部分は多々ありますが、作り続ける為にご理解を賜りぞんじます。
今回取材した「平和学習」は、子供たちに平和の大切さを伝える意義とともに、入園者の使命感を後世に残す一助となりたいと思っております。
【11月2日】
*左から 広島協立病院の山地さん 原時彦さんと押切事務総長 こがね食堂のご馳走
朝から可部線にのり広島共立病院に向かいました。
医療ケースワーカーの山地恭子さんにお会いしましたが、非常に忙しいスケジュールの中をインタビューのため
無理に時間を割いていただき恐縮の態でしたが、よく考えると・・・。
よく考えなくても今回の作品に出ていただいた方は皆さん非常に忙しい方ばかりなのを改めて思い直し、
図々しく皆様に無理をお願いし続けて来たことを深く反省しました。
でも最後の最後で気づく私は一本抜けているみたいです。反省。
しかし、一段落ついて振り返ると、素晴らしい方々から素晴らしいお話をたくさん聞けたことに感謝、感謝です。
午後から「原民喜の版権継承者」である原時彦さんとお会いし、次回作となる「夏の花を歩く」の打ち合わせをしました。
「広島からのメッセージ」のインタビューが終了したこともあり、昼食をとりながらの打ち合わせとなり楽しい時間を過ごさせて頂きました。
2012年11月5日
世界の子供に伝える会事務局
10月2日からの秋季広島ロケ + 肥田舜太郎先生の取材
未来への証言の制作の第三回広島ロケを、10月2日から4日間の日程で敢行しました。
【10月2日】
*左から 被爆体験証言者の笠岡さん 平和資料館会議室にて 饒津神社
昼前に広島駅到着後、まずは平和公園に向かいました。
原爆被爆体験証言者(語り部)の笠岡さんと合流し広島平和記念資料館の会議室をお借りしての撮影後、
元安川河畔でインタビューを行いました。
京橋河畔に移動し「原民喜」ゆかりの被爆柳近辺の遊歩道を撮影。
*左から 広島東照宮 久保田宮司 東照宮の原民喜詩碑父
広島東照宮久保田宮司の被爆講話をお聞きしました。
第二作目になる「原民喜 夏の花 を歩く」に登場する広島東照宮。
原民喜さんが目にした光景を同時期体験した保田宮司のお話は貴重なものでした。
*左から 世界平和記念聖堂 教会のなか 幟町教会肥田神父
夕方、世界平和記念聖堂のあるカトリック幟町教会に向かい肥塚神父にお会いしました。
肥塚神父から「原民喜」に関しての貴重な資料やお話をお聞きし感動の時間を過ごさせていただきました。
【10月3日】
*左から 舟入むつみ園 生活指導主任の川崎さん 介護主任の長谷川さん
朝から広島原爆養護ホーム一般養護の舟入むつみ園に行きました。
会の被爆者の方から「原爆作品を作っているいるのに原爆養護ホームを撮さないのは本当のヒロシマを知らないことだ」とお叱りを受け、
ダメ元の思いで上部団体である財団法人広島原爆被爆者援護事業団に取材申請を出し電話で作品趣旨を説明をしましたら許可がおりたのでした。
噂と言うか暗くて重い風聞を聞いておりましたので心が非常に重たくなるほどの緊張の心持ちでお伺いしたのです。
しかし、噂と現実はこれほど違うのか、広島の人たちでさえ誤解をしている施設の内容を知り感動しました。
被爆孤老は、昔のこと。
ここの入園者は精神的にも経済的にも安定しており、
辛く悲しい過去を乗り越え病魔と戦いながらも明るく生活しておられると言う話を聞き大いに安心しました。
*左から 要田会長 広島共立病院 青木医師
午後になり原爆ドームに移動し、毎年8月6日に被爆ピアノコンサートを主催者されている
交際作家協会の要田会長とお会いし早速インタビューをさせて頂きました。
音楽を通しての平和活動も意義深いものを感じます。
午後3時のアポイントで古市の広島協立病院に向かいました。
前広島協立病院の院長であった青木先生にお会いしインタビューをさせて頂きました。
青木先生は、広島で被ばく者医療の最前線で活躍されており、福島支援にも果敢に取り組んでおられる被爆二世の医師です。
先生は力強く「内部被曝問題では、原発労働者達がより深刻な状態にあると」警告の言葉を発されていました。
【10月4日】
*左から 倉掛のぞみ園 生活指導主任さん 介護さん
午後から広島原爆養護ホーム倉掛のぞみ園に向かいました。
こちらは舟入の一般養護とは違い、より重度の方々が入所する特別養護施設です。
生活指導・相談員、介護員に方々にお話をお伺いできましたが、
医師の先生が急遽出張のためお会い出来なくお話が伺えなかったことが残念でありました。
【10月5日】
*左から 福谷昭二先生 毛髪碑? マルセー・ジュノウ博士の碑
教育者として高名な福谷昭二先生とお会いしインタビューをさせて頂きました。
福谷先生は元国泰寺高校の校長をはじめ大学などでも教壇に立たれおられた教育畑一筋の方で、現在も詩人としても活躍されています。
今回もなんとか問題なくスケジュールを紹介し、夕方の新幹線で東京に戻りました。
【10月6日】
肥田舜太郎先生インタビュー
大変にきついスケジュールでしたが、肥田先生のスケジュールの都合で帰京の翌日の6日収録となってしまいました。
肥田舜太郎先生は今日本で一番有名な「被爆医師」でしょう。
90歳を過ぎた今も内部被曝の恐ろしさをセミナーや講演や演説会を通して訴えられています。
2012年10月25日
世界の子供に伝える会事務局
「痕跡のない街・・・爆心直下」遂に完成!
試写会の報告と上映会のお知らせ
未来への証言シリーズ「痕跡のない街・・・爆心直下」が8月に完成し、東京板橋区の成増図書館映写室にて理事及び関係者を集め試写会を執り行いました。
【9月5日】
【10月10日】
【東京第一回上映会】
● 下北沢 トリウッド劇場
● 10月10日午後7時開場 7時15分開演
● 入場料 500円
米国戦略爆撃調査団が1945年9月~1946年4月に撮影したカラー映像に加え、現代の広島の同じ場所からの撮影を交え、原爆被害の実態の記録作品です。
撮影協力の方々
広島市平和記念公園
厳島神社
広島市公文書館
広島市商工会議所
広島記念病院
本川小学校平和資料館
被爆寺社(多数)
広島フィルム・コミッション
合衆国公文資料館
インタビューの方々
被爆治療医師入市被爆者
元軍属直接被爆者
直接被爆者現語り部
入市被爆者現郷土史家
元ABCC職員入市被爆者原爆孤児
二次被爆者作家
原爆孤児爆心地寺院住職
【時 間】 30min
2012年9月15日
世界の子供に伝える会事務局
8月6日からの夏期広島ロケ
未来への証言の制作の第二回広島ロケを、8月6日から4日間の日程で敢行しました。
【8月6日】
*上段左から 被曝ピアノコンサート 被爆ピアノ 核武装推進派のデモ
*下段左から 灯ろう流しの準備 灯ろう流し 広島東照宮久保田宮司
8月6日午前8時15分17秒、新幹線車中にて黙祷。
式典報道はNHKさんに任せて、我々は原爆ドーム慰霊碑前で行われる「原爆被爆者慰霊~第五回被曝ピアノコンサート」に直行。
この被爆ピアノは約90 年前にアメリカ・ボルドウィン社で作られたそうです。
昭和7 年、河本源吉・シズ子さん夫妻によって日本に持ち帰られ、アメリカで生まれた長女の明子さんが弾いていました。
明子さん(当時19 歳)は広島女学院専門部(現広島女学院大学)3 年生の昭和20 年8 月6 日、
学徒動員中に被爆し翌日7日に亡くなりました。
ピアノも爆風によるガラスの破片を無数に受けました。引き手を失くした「被爆ピアノ」は自分を生んだアメリカの手による原子爆弾で傷つきながら、
60 年間三滝の丘から広島の街を静かに見続けていました。
この「被爆ピアノ」の音を取り戻したい願いから修復に取り組み、2005 年8 月3 日にはチャリティーコンサートを開催できました。
そして今年も原爆ドームの前で修復された「被爆ピアノ」で永遠の平和を願い、調べを奏でたいと思いで国際作家協会さんが主催し、イベントを毎年開催されています。
平和記念公園に向かう途中にデモに遭遇しました。
右派の方のデモでしょうが、原爆投下のこの日は日本国民として厳かに冥福を祈る日ではないでしょうか。
思想・言論の自由を認める日本で色々な考えを主張する事に異議を唱えるつもりはありませんが、
戦争によってお亡くなりになった方々や遺族の方々に哀悼の意を表する事は、大事なことである事を忘れてはならないでしょう。
夕刻になり、今回のロケの一番のメインディッシュである灯ろう流しの撮影のため相生橋に向かいました。
悲しくも幻想的で平和の象徴としての画なので会としても映像のストック・フッテージとして是非にも所蔵しておきたい思いがありましたので撮影できたことに感謝なのですが、
広島のメンバーは別としてお恥ずかしいですが我々は初めてでしたので撮影ポイントがわからず多少残念な思いもあります。
来年は、もっと良い画を収録したいと思います。
広島東照宮久保田宮司の被爆講話をお聞きしました。
第二作目になる「原民喜 夏の花 を歩く」に登場する広島東照宮。
原民喜さんが目にした光景を同時期体験した保田宮司のお話は貴重なものでした。
【8月7日】
*左から 丸屋医師 原民喜の飾り皿 原民喜さん 上田由美子さん
早朝から取材のため、ご体調のことを考えると図々しさに恐縮しながら丸屋先生のご自宅にお伺いしました。
二次被爆のインタビューと資料、お写真のスキャニングをさせて頂きました。
午後からは、原民喜さんの甥御さんで版権継承者でもある原時彦さんの草津のご自宅におじゃまし、
貴重な原民喜さんの自筆の文書やお写真を拝見し資料としてスキャニングをさせて頂き、次回作「原民喜 夏の花を歩く」用のインタビューを収録しました。
夕刻になり市内に戻り、上田由美子さんのインタビューを収録しその日のロケを終了としました。
【8月7日】
*左から YWCAフィールドワーク 原時彦さん 原家の墓所 竹原さん
この日は一日、日本YWCAさんのフィールドワーク「原民喜 『夏の花』を歩く」に同行させて頂きました。
原民喜さんが被爆直後に避難のため辿った道を原時彦さん、原民喜研究家の竹原さんに解説で収録させて頂きました。
YWCAの吉村副会長さんには本当にお世話になり感謝しております。
フィールドワーク終了後に場所を移し、原時彦さん、竹原さん、長津副会長、押切事務総長と次回作「原民喜 夏の花を歩く」の企画構成の煮詰めとインタビューを収録しました。
その後平和記念公園に移動し広島のメンバーである伴さんと合流し残りの収録を続けました。
【8月9日】
今回は最終日にホテルでなく長津副会長のご自宅にお世話になり楽しい一夜を共にさせて頂きました。
9日の早朝広島市内に戻り、残した撮影ポイントを収録し今回のロケを終了しました。
2012年8月15日
世界の子供に伝える会事務局
市民運動は成熟の時を迎えるか
代々木公園で開催「さようなら原発10万人集会」されたに行ってきました。
自宅から押切事務総長と待ち合わせの千代田線の代々木公園駅に向かいました。
副都心線の乗り換え駅明治神宮前で降りますとご年配の男女で集団には見えない個々の方々がそれはそれは大勢一斉に降りるではないですか?!
若者の街原宿?
似つかわしくない人々?
連絡通路に向かい改札を横切ると!嗚呼!なんと迂闊。
さらに多くのプラカードや旗幟持った善良そうな♪人々。
すごい、なんかすごそう。
しかし目的地に着くと更に想像をはるかに大きく超えた光景を目にしたのでした。
山手線のラッシュの様な!道々に溢れんばかりの人人人の波!
途切れることのない人の波を見ていると、今までに、かって見たことのないシーンに参加出来る予感に興奮している自分を感じる。
政党でも労組でもインチキ市民派でもない市井の民が主導の集会だ。
我慢しすぎる日本の民が欧州の民に追いついた瞬間だ。
警察発表で約7万5000人。
主催者発表で約17万人。
酷暑の中デモが始まった。
たぶん生まれて初めてデモなるものに参加したと思える顔、顔、顔。
日本が捨てたもんじゃないと思い直せるシーンに出会えた事に感謝する。
日本が変わる。
日本を変えよう!
2012年7月17日
鈴木 誠一
広島ロケスタート!
未来への証言の制作がスタートし、5月27日から5日間広島でロケを敢行しました。
【5月27日】
*左から 嵐の中の母子像 平和祈念像 広島県立第二中学校慰霊碑
広島到着後、平和記念公園にある哀悼碑の数々を収録しました。
世界の子どもの平和像
中国四国土木出張所職員殉職碑
動員学徒慰霊塔
赤い鳥顕彰碑
広島郵便局職員殉職碑
原爆犠牲建設労働者・職人之碑
原爆犠牲ヒロシマの碑
広島瓦斯株式会社原爆犠牲者追憶之碑
広島県農業会原爆物故者慰霊碑
ヒロシマの火 平和への灯
原爆之碑
被爆放送局の碑
被爆動員学徒慰霊慈母観音像
広島市立高女原爆慰霊碑
旧天神町南組慰霊碑
友愛碑
祈りの泉
嵐の中の母子像
平和の像「若葉」(湯川秀樹歌碑)
原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑
広島市立商・造船工業学校慰霊碑
広島県立第二中学校慰霊碑
義勇隊の碑
【5月28日】
*左から 広島商工会議所ビル屋上 平和公園俯瞰 本川小学校
広島支部の伴さんも参加で広島フィルムコミッションの西崎さんに案内して頂き広島商工会議所ビルと広島記念病院屋上から俯瞰ショットを撮影。
午後からは爆心地から5キロ圏の旧宿場町草津の被爆建物や風景、五日市中央公園原爆の碑と被爆桜二世、被爆後に原民喜が避難していた旧佐伯郡八幡村の田尾商店、
茶臼山城址の原民喜「永遠のみどり」詩碑を収録しました。
*上段左から 昭和21年(1946b年)厳島神社 昭和21年平舞台 昭和21年大鳥居
下段左から 平成24年(2012年)厳島神社 平成24年平舞台 ライトアップの厳島神社
夕刻から世界遺産である宮島の厳島神社の社を撮影しました。幻想的なライトアップの美しい夜景は圧巻でしたが、
大鳥居は工事中で絵にならず残念でした。
今回の作品では1946年4月に撮影された映像と同ポジションで撮影する事で時の流れを現すつもりでしたが厳島はなにも変わっていませんでした。
【5月29日】
*左から 原家の菩提を弔う原時彦さん 墓側面には一族の名が 広島東照宮の民喜詩碑
長津副会長が参加し、原民喜さんの甥御さんで版権継承者の原時彦さんの案内で「夏の花」の道を辿りました。
京橋川河畔を歩き被爆柳から栄橋を通過し縮景園、原民喜の菩提寺である圓光寺を訪ねました。
ここ圓光寺で大発見がありました。
*左から 昭和21年白島の瓦礫 昭和21年禿翁寺跡 平成24年今も残る6地蔵
圓光寺の奥様に昭和20年当時のキャプチャー写真(白島の瓦礫の中の六地蔵)を見せ近辺のお寺さんで心当たりはないかと問い合わせますと、
隣の禿翁寺さんじゃないかと仰ったのです。
早速お伺いし、お寺の方にお尋ねして、米国戦略爆撃調査団の撮影フィルムの中の「白島エリアの仏像と石仏を参る」シーンが禿翁寺さんである事が判ったのです。
ニギツから広島東照宮に向かい原民喜句碑を撮影し、平和記念公園に戻り原民喜詩碑の前で原時彦さんの撮影をしました。
その後、原爆絵画や写真等の資料貸し出しの打ち合わせで広島平和記念資料館にお伺いしました。
【5月30日】
*左から 丸屋医師 質問をする長津副会長 浄宝寺の諏訪住職
入市により被爆をされ体験を持ち、原爆治療医師として長年にわたり原爆症治療に従事されてきた丸屋先生のご自宅を訪問してインタビューを収録しました。
丸屋先生は広島共立病院の名誉院長であり、御庄博実のお名前で著名な詩人として活躍されている方です。
穏やかな口調で語られる先生のお言葉は、3000人もの被爆者を治療してこられた医師としての経験と自らも被爆と闘ってきた気概に満ちたものでした。
午後には、原爆が投下されるまで旧中島本町にあった浄宝寺の現御住職諏訪了我さんのインタビューを収録しました。
諏訪さんは当時小学校6年生で、集団疎開により生命は助かりましたが、爆心地の旧中島本町におられたご両親とお姉様を一度に失われ原爆孤児となりました。
【5月31日】
*左から 平和の鐘 韓国人原爆犠牲者慰霊碑 原爆の子の像
朝一番に広島共立病院にお伺いし、青木先生と次回のインタビューに関しての打ち合わせ後に平和記念公園に戻りる哀悼碑の撮影をしました。
平和の鐘
遭難横死者慰霊供養塔
原爆供養塔
韓国人原爆犠牲者慰霊碑
慈仙寺被爆墓石
平和乃観音像
原爆の子の像
平和の灯
平和の池
原爆死没者慰霊碑
*左から 郷土史家平岡さんと語り部笠岡さん 相生橋に立つ長津副会長
午後からは被爆者のご兄弟で郷土史家の平岡さんとお姉様で語り部のさんのインタビューを収録し、
今回のロケを終了しました。
2012年6月1日
世界の子供に伝える会事務局
未来への証言
今、日本だけでなく地球全体規模の深刻な環境破壊により危機的状態にあるといえるでしょう。過去の日本も犯し、
今拡大する発展途上国の公害による大気や土壌の汚染、水質汚濁に加え、温暖化、オゾン層破壊、酸性雨等の地球全体の規模の環境破壊が進んでいます。
そして、福島原発事故が昨年発生しました。学者や反対運動の方々が永く訴えてきた警鐘が単なる絵空事でないという事実を、多くの国民の方が実感し理解した事でしょう。
「原発安全神話」は完全に崩壊したのです。
原発再稼動に関し、国民世論は緩やかな肯定からNOに大きく舵を切り原発稼働は近い将来完全停止の道に辿り着くかもしれません。
しかし、原発が生み出した広島原爆100万発分の核分裂生成物(死の灰)
が消えてなくなった訳ではありません。
六ヶ所村貯蔵施設や再処理場に貯蔵される膨大な核廃棄物に加え各原発に残された核廃物が現存している事も現実です。
私たちは、核放射能問題を中心に環境破壊汚染問題をテーマに取り上げ、これから抱える事となる心の持ちようや不安を克服するための作品作りを目指しています。
2012年5月27日
世界の子供に伝える会事務局
カーソン女史と鯖のシャブシャブ
1962年「沈黙の春」著者 Rachel Louise Carson レイチェル・カーソン(米国の生物学者)は、その著書によって「環境汚染と破壊の実質」を世に先駆けて告発した。
発表当時は大きな反響を巻き起こし、世界中に農薬の使用を制限する法律の制定を即すと同時に地球環境で人々の発想を大きく変えるきっかけとなった。
私はレイチェル・カーソン女史の海洋生物学者としての視点での著作に大いに興味をひかれる。
例えば「The Sense of Wonder センス・オブ・ワンダー」での幼い甥のロジャー(当時1歳8ヵ月)との
海岸や森への冒険や探検・・・舞台となったメイン州の林や海辺の自然、そこには純粋無垢の自然が残されていた。
そのままいつまでもそこにあるように書き残されてる。(でも女史の寿命はそれほど長くはなかった。
唐突に、いま、福島原発事故の被災地となった福島の海と森・畑・田んぼや牛舎や人々の住む家や土地を本に書かれている
メーン州のレイチェルの別荘の近辺の自然と比較するのは、すこしあざとすぎるどろうと・・・
そんなことを思っていて 夕暮れ知り合いの居酒屋に寄ってみたら、今日相模湾で釣ってきたという「鯖のシャブシャブ」を馳走になった。
福島は海も森も、水も空気も、そこに棲むあらゆる生物も汚染された。
そして、少なくみても五十年さ回復しないかも知れない。そして汚染は更に拡大するかも知れない。
私達は人間のしたこと、何が原因で自然が汚染され、人々がそこに住めなくなり、何故そこを離れなければならなくなったのか、
海で獲れる魚を食べれなくなったのか、そういう事実の根本を子供たちに、正しく伝えていかなければならない。
2012年5月17日
押切 祐治
ハンフォード・サイトの託宣
昨年引き起こされた福島第一原子力発電所事故の後、弊会の長谷川会長はいくつか作品を発表してまいりました。
この作品も其の内の1つです。
チェルノブイリや英国のセラフィールドサイに並ぶ世界有数の放射能汚染地帯として名高い米国のハンフォードサイトをテーマとして創作されたものです。
シアトルから車で四時間
コロンビア川の畔にハンフォード町
往ったことはないが その場所に到着したい
ザ・ハンフォード・デス・マイル
いやな呼稱だが そのように呼ばれている
核兵器工場の痕地 有害廃棄物
固形放射性廃棄物 汚染の土壌 構造物
染み出した地下水 地下タンクに眠る貯蔵された何百万ガロンの廃棄物を
この目で見たい
でも見られないのが 本筋である
放射能性の野ウサギの死体を見たい
汚水を飲んだ野ウサギの糞を見たい
今を、この眼で、生きている眼で見たい
核開発の原点、閉鎖して、その痕跡が在るのか無いのか 見たい
ただの あたりまえの風景だよ と
辛うじて生き残ったインディアンは言う
除染の完了未来日はいつだろう
2058年ぐらいと言っている
被爆、流産、先天性異常、稀有な小児病
アメリカの行政は 闘ってきたが
そんなものは昔語りさと 誰もが言う
ぼくの頭脳にある日本の伝統物
興福寺にある阿修羅立像の内部に
虻(アブ)と蚋(ブヨ)とが群れを成して 唸っている
シアトルから車で四時間
コロンビア川の畔にハンフォード町
往ったことはないが その場所に到着したい
2012年4月1日
長谷川 龍生
ドキュメント映像作品『小谷 杣(そま)の記録』
平成二十三年度度文化庁「文化遺産を活かした観光振興・地域活性化事業」助成作品 『小谷「杣」の記録』の制作に参加しました。
文化庁助成金作品の制作に協力しました。
古代から中世にかけて杣において伐採や製材に従事した者を杣師と呼んだそうです。
後継者がいなく、滅びようとしている日本古来の伝統技法「杣」。
今回制作した作品は、山本さんという杣師が持つ「杣」の技を記録し、後世に伝える為に制作したものです。
地味で渋いですが、なかなか良い作品にしあがったと思っています。
日本の様々な分野で、LostTechnology、伝統技術の喪失が危機感を持って叫ばれる今日。
日本の木造文化を支え、里山の暮らしの中で、培われてきた杣の技。
杣には効率優先の機械製材では、超えられない技があります。
銘木の命は杢(もく)。
その色艶=価値を決めるのは樹脂。
つまり木の脂なのです。
機械で銘木を製材すると、この杢の価値を左右する樹脂が熱で焼けるか溶けてしまい、銘木としての価値は失われてしまいます。
人力で木を挽く時に出るおがくずの量は、機械製材の半分以下なのです。
日本の木造文化を支えてきた「木を読む」「木を挽く」技術が廃れることは、そのまま日本文化の死を意味しないでしょうか・・・
長年の経験でしか培えない「木と対話する」技術は、
日本文化の底流にある計測や計算が出来ない
「感覚を開き、見極める」
に通じるのです。
皆さんは小谷と書いてオタリと読むこの村をご存知でしょうか?
作品の中で使ったナレーションでこの村の概要と雰囲気をまずご紹介したいと思います。
「長野県北安曇郡小谷村。
長野県と新潟県の県境に位置する人口三千の村。
村の全面積の88%を森林が占め、
村の東には、標高二千m級の妙高連峰、
西には標高二千五百mの白馬連峰がそびえ・・・
狭間を流れる急流姫川、
その峡谷の傾斜地を利用して作られた村、小谷。
古代には日本海側から内陸への交易の要衝として、塩やその他の物資がき交かった。
千の国と書いてチクニと読むこの街道は、弥生時代まで遡ると言われている。
海と山を結ぶ民の道であったが、江戸時代参勤交代でも使われず、
只只(ただただ)古くからの「塩の道」として、その命脈を繋いできた。
街道の村落は山険しき地故に貧しく、松本までは 寺社も少ない。
しかし、その山村の民達の信仰心が薄いて言う訳ではなく、
道祖神や観音の石仏や庚申塔で、その篤き信仰心を守ってきたのであった。
今も残る数多くの石仏群は、その証しであろう。
江戸時代から明治大正と時を刻み 日本が大きく様変わりしても、
昭和平成の大開発の波が日本各地を揺るがしても、
この地は静寂な時の中で眠っていた。
それ故か、涙するほどの美しい自然と滅びゆく伝統の技法が残ったのだろう」
画期的な道具、新たな技術の出現により、同じ用途で使われていた道具や技術は急激に衰退する現象が繰り返されてきました。
原始においては鉄器の出現によって、石器が衰退した様に、
室町期に縦挽き大鋸の伝来によって、木材を繊維に沿って縦に割る「打ち割り法」が廃れたのでした。
同じ様に杣や木挽きの技術や道具も、機械化の前に今や駆逐されようとしています。
歴史の中で繰り返される栄枯盛衰の理としては、取るに足らない事となるかもしれませんが、
その技の周辺にあった長い年月をかけた修練や徒弟制度の崩壊は取り返しのつかない明日の放棄なのかもしれません。
利便だけを追求し経験を必要としない時代の老練や年を重ねることが価値を失ったこの国は、この先、どのような歴史を辿る事となるのでしょうか。
2012年3月25日
鈴木 誠一 ・ 斉藤 敏弘
語り継ぐこと
東日本大震災お見舞い申し上げます。日本列島が大変なことになっておりますが、皆様のご親族やご友人などいかがでしようか、お見舞い申し上げます。
今回の大震災は、天災と人災が混じっているようですが、広島に生まれ育った者としては、広島・長崎の原爆投下による無差別殺戮と放射能の影響を、改めて考えざるを得ません。如何に私たちが、バブルが弾けたとはいえ、自己中心的な目先の現在の繁栄を享楽して、安全や将来や自然を考えに入れていなかったか、という油断に大きなしっぺ返しをされたようです。災害に遭われた方々のことを思うと辛すぎて言葉もありません。共に人間として手を繋ぎ、一緒に立ち上がるしか無いでしょう。
平和と核廃絶について、あまり政治的な発言は控えて来ましたが、この美しい水と緑の地球を、次の世代へ残し伝えていくためにも、やはり六十六年前の、神と悪魔が結託した、原爆投下という行為を、厳しく見つめて語り伝えて行くべきでしょう。如何に命と平和が大切であるか、語り継いでいくことが、生き残った者の勤めではないでしょう
2011年3月20日
長津功三良
ヒロシマ・ナガサキを風化させてはならない!
ヒロシマ・ナガサキの原爆被爆の実態を映像により次世代に伝え、たとえ戦争という極限状況かであっても決して許されるべきではない、核兵器を始め非人道兵器の廃絶を世界中の人々に訴える。
地球上で唯一の被爆国である日本・・・。
ヒロシマ・ナガサキの歴史的事実を、被爆建造物や被爆者の貴重なカラー映像を基に、映画を制作し、世界中の言語による作品化を図る。
そのプロローグとして、全国の大学やサークルなどで上映会を通して、日本の若者に、被爆とは、遠い昔の過去の悲しい記憶でなく、今日明日にも再び繰り返される可能性がある恐ろしさと、被害の歴史的事実の実態を把握してもらい、核兵器を含めた非人道兵器の廃絶に向けた機運を、若者から高めて行く活動をするものとする。
2011年2月15日
鈴木 誠一
AEWCニュース
短編ドキュメント映画「未来への証言」シリーズ制作スタート!